【いだてん】金栗四三はどんな人?経歴は?【大河ドラマ】

2019年の大河ドラマ、いだてんの主人公、金栗四三。

金栗四三はどんな人だったのか、どんな経歴の持ち主なのか、

ここでわかりやすくまとめてみたいと思います。

日本のスポーツ界に多大な貢献をした人物ですので、

2020年の東京オリンピックが開催される前に、

日本スポーツ界の偉人の一人である金栗四三の経歴を振り返ってみましょう。

いだてん19歳までの経歴

 

いだてん誕生から嘉納治五郎との出会いまでの経歴

1891年

明治24年8月20日、熊本県玉名郡(和水町)で8人兄弟の7番目として生まれます。

5歳ころまでは異常体質と思われるくらいのひ弱な子供だったようで、

2歳ころまでは夜泣きで家の人たちを困らせていたとのこと。

出典:https://www.city.tamana.lg.jp

1901年(10歳)

明治34年、玉名北高等小学校(南関第三小学校)入学します。

自宅から学校までの距離が往復12kmほどで、毎日走って登下校したことで、

この登下校がマラソンの基礎になったと本人が言っていたそうです。

この登下校のときに独自の呼吸法(←大河ドラマいだてんでも表現されています)を習得したとか。

 

1905年(14歳)

明治38年、玉名中学(玉名高校)に進学。特待生になるほど成績優秀だったとのこと。

スポーツ万能とは言えず、体操や剣道は苦手だったとのことです。

 

1910年(19歳)

明治43年、東京高等師範学校(筑波大学)に進学。

中学卒業後は海軍兵学校を目指したようですが、身体検査で不合格。

当時は中国大陸への留学を目指したようで、その一環で東京高等師範学校を受験し合格、

お兄さんに「立派な教師を目指したら」と諭され、入学することになったようです。

 

東京高等師範学校は、あの嘉納治五郎が校長を務めていることも影響しているのか、

当時まだ、スポーツが現代のような取り扱いではなかった時代に、

スポーツに力を入れている学校だったようで、春と秋の2回、長距離走大会を行っていたようです。

入学したばかりの金栗四三は、春の大会では25位だったようですが、

秋の大会では上級生の中に混じりながら3位となったようです。

これは東京高等師範学校では快挙であり、校長の嘉納治五郎より表彰されます。

このことが、いだてん金栗四三のマラソンへの大きなきっかけとなります。

これまでが、金栗四三の誕生から19歳まで、嘉納治五郎との出会いまでの経歴です。

成績優秀で、スポーツは万能ではありませんけど、

幼少からの環境で長距離走の基礎が身に付き、

嘉納治五郎との出会いがきっかけとなり、いだてんと言われる長距離ランナーになっていくんでしょうね。

いだてん20~33歳の経歴

いだてん3度のオリンピック出場までの経歴

1911年(20歳)

明治44年、高等師範の予科から本科へ進んだ金栗四三は、

部活に所属しなければならず、徒歩部(←陸上部)に所属します。

徒歩部の金栗は早朝から練習に励み、金栗に適う者はいなくなりました。

そして、春の長距離走で優勝します。

 

10月、翌年に開催されるストックホルムオリンピック予選会に出場し、

当時の世界最高記録を27分も短縮する衝撃のタイム2時間32分45秒の世界記録(非公認)で優勝。

短距離の三島弥助と2人、ストックホルムオリンピックに出場することとなりました。

日本がオリンピックに出場するのは初めてのことでした。

 

1912年(21歳)

明治45年7月14日、ストックホルムオリンピック、マラソン競技スタート。

25km付近を過ぎたあたりで、脱水と思われる症状によって意識が混濁し、

コース近くの農家(←ぺトレ家)に迷い込み、意識喪失。

次の日に意識が戻り、宿舎にもどったあと、帰国することになります。

このときのマラソン競技は68人中完走34人、死者もでるほどの過酷な環境でした。

※このぺトレ家といだてん金栗四三の感動エピソードもあります。

 

1913年(22歳)

大正2年、日本体育協会主催?の第1回陸上競技選手権大会で、

2時間31分28秒で2度目の世界記録更新(非公認)。

 

1914年(23歳)

大正3年、東京高等師範学校を卒業し、同校研究科へ進学しマラソン一筋の生活をすることになります。

この年、春野スヤとお見合い結婚。地元熊本で結婚式を挙げた後、

スヤを残し上京し、オリンピックを目指してマラソンに専念するのでした。

日本体育協会主催?の第2回陸上競技選手権大会で2時間19分30秒で走り、3度目の世界記録更新。

出典:https://www.city.tamana.lg.jp

1916年(25歳)

大正5年、メダルが期待されましたが、ベルリンオリンピックは第一次世界大戦のため中止。

神奈川師範学校(横浜国立大学)に教師として赴任。担当科目は地理。

また、東京箱根間を走る駅伝大会(箱根駅伝)を発案する。

 

1917年(26歳)

大正6年、駅伝の始まりとされる、東海道駅伝徒歩競争を企画し、関東組のアンカーとして出場。

 

1920年(29歳)

開催を企画していた第1回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)が開催される。

大正9年、第7回オリンピックアントワープ大会(ベルギー)に出場。

一時は5~6位くらいまで順位を上げたようですが、最終的には16位となりました。

記録は2時間48分45秒4。

 

1921年(30歳)

大正10年、東京女子師範学校(お茶の水大学)に赴任。

日本初の女子のスポーツ大会、女子テニス大会を開催する。

 

1923年(32歳)

大正12年、関東女子体育体育連盟を結成。

 

1924年(33歳)

大正13年、第8回オリンピックパリ大会(フランス)に出場。

32km付近で意識を失い途中棄権となります。

帰国後、マラソンを引退する。

出典:https://www.city.tamana.lg.jp

以上が、いだてん金栗四三の3度のオリンピック出場までの経歴です。

日本が初めてオリンピックに出場したストックホルム大会で出場した選手は2人。

マラソンの金栗四三と短距離競技の三島弥彦です。

 

金栗は予選会で驚異の世界記録をたたき出しましたが、

オリンピックでは長距離遠征によるコンディション不足から力を発揮することができませんでした。

その悔しさからマラソンに専念することを決心し、

結婚しても、奥さんと離れた生活をして、次のオリンピックの準備をします。

その結果、非公認ではありますが、2度(生涯で3度)の世界記録をたたき出し、

ランナーとして絶頂期にあったベルリンオリンピックでしたが、

第一次世界大戦のため中止となってしまいます。不運ですね。

 

それでも次のアントワープオリンピックには出場し、

途中6位まで順位を上げていたようですが、結果は16位。

33歳で迎えたパリオリンピックでは途中棄権、これをもってマラソン競技を引退するのです。

ベルリンオリンピックの中止が悔やまれますが、

日本が初めてオリンピックに出場した初めての選手であり、

3度のオリンピックに出場した、正に日本のマラソンのパイオニアです。

 

このオリンピックを目指していた頃のいだてん金栗四三は、マラソンの競技者というだけではなく、

教育者という職業柄かもしれませんが、スポーツの普及にも取り組んでいます。

これは、自身が3度のオリンピックの出場により、

世界の各国のスポーツへの取り組み、特に女子のスポーツの必要性を感じていたようです。

現在の学校名で表示しますが、横浜国立大学、獨協中学、お茶の水大学で教師をしていた金栗は、

それぞれの学校でスポーツを推進し、

特にお茶の水大学では、日本初となる女性のスポーツ大会を開催しています。

 

もちろん、自身がマラソン競技者であることから、マラソンの普及、強化のために駅伝を開催し、

正月の風物詩として続いている箱根駅伝も企画したひとりです。

 

運営的な出会いであった嘉納治五郎が「日本スポーツの父」と称されますが、

金栗四三は「日本のマラソンの父」と称されるようになるものうなずけますね。

しかし、実績を並べてみると、なんという経歴の持ち主なんでしょうね!

いだてん39~92歳の経歴

いだてんスポーツ普及と感動のゴールまでの経歴

1931年(39歳)

昭和6年、故郷熊本玉名に帰郷し、マラソンの普及活動を行う。

 

1936年(44歳)

昭和11年、日本で開催される初のオリンピックのために上京し、開催準備に奔走。

 

1938年(46歳)

昭和13年、開催予定であった第12回オリンピック東京大会の返上が決定。

 

1945年(53歳)

昭和20年、再び帰郷、熊本県体育会を設立し、初代会長に就任。

第1回金栗賞朝日マラソン等の大会開催に尽力します。

金栗賞朝日マラソンはのちの福岡国際マラソンとなります。

 

1955年(64歳)

昭和30年、長年のスポーツ普及の功績により、紫綬褒章を受章する。

 

1961年(70歳)

昭和37年、玉名市の名誉市民第1号となる。

 

1967年(76歳)

昭和42年、スウェーデンオリンピック委員会より、

ストックホルムオリンピック55周年記念式典に招待され、

いだてん金栗四三の感動エピソードとなります。

1983年(92歳)

昭和58年11月13日、永眠。

以上が、競技引退後からお亡くなりになるまでの、いだてんの経歴です。

地元熊本でのスポーツ普及活動、

また、1度開催が決定した1940年の東京オリンピック開催への取り組み、

本当に晩年になるまで、スポーツの普及、振興に尽力されたようです。

 

そして、劇的なストックホルムオリンピックのゴール!

54年8ヶ月6日5時間32分20秒3というおそらく破られることのない、最も遅い記録の持ち主。

この55年ぶりのゴールのエピソードについても、その後の話があり、

1983年にいだてん金栗四三はなくなっていますが、

1912年のストックホルムオリンピックから100年経った、2012年!

またもやスウェーデンのオリンピック委員会は、100周年記念イベントに、

金栗家と玉名市長を招待し、

マラソン競技が行われた7月14日に記念のマラソン大会を開催したのです。

いだてん金栗四三のひ孫の方がマラソン大会に出場し、

介抱をしてくれたぺトレ家とも交流があったそうです。

こんな素晴らしい話があるでしょうか。

2012年ストックホルム五輪100年記念マラソン大会

出典:https://www.city.tamana.lg.jp

↑ちょっと似てますね(笑)

 

余談ですが、2004年より箱根駅伝の最優秀選手には「金栗四三杯」が贈呈されています。

今回の、この金栗四三の経歴を紹介するにあたり、以下のサイト様を参考にさせていただきました。

金栗四三ミュージアム

マラソンの父 金栗四三さん(玉名市)

金栗四三「体力 気力 努力」(和水町)

まとめ

以上、今回は大河ドラマいだてんの主人公金栗四三の経歴を年表っぽく紹介しました。

調べれば調べるほど、いだてんの人柄を感じますし、

スポーツやマラソン、駅伝の普及、また、女子スポーツの振興など、

凄い人だったんだなと思います。

 

そして、オリンピックでは好成績は残せませんでしたが、

スウェーデンの方々や介抱してくれたぺトレ家との繋がりなどを目の当たりにすると、

その親切さや人間味などから、僕なんか心が振るわされます。

こんな先人たちを誇りに思います!

大河ドラマも楽しみですね。

 

今回の記事が読んでくださったみなさんのスポーツの楽しみにお役にたてればうれしく思います。

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最後まで読んでいただきありがとうございます。

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