2020年の東京オリンピック開催へ向けていろいろな準備が進められているようですが、
大河ドラマ「いだてん」もそのひとつだと言えるでしょう。
このいだてんに登場する三島弥彦が初めてオリンピックに出場した選手です。
三島弥彦とはどんな人物だったのか、紹介したいと思います。
三島弥彦(みしまやひこ)
1886年(明治19年)に東京麹町で生まれました。
父は元薩摩藩士で、明治以降「鬼県令」として異名をとった五代目警視総監の三島通庸、
母はやはり薩摩藩兵学者柴山権助の娘である和歌子(実母ではないとか)。
薩摩(鹿児島)をルーツとするバリバリの名門の御曹司だったわけですね。
長兄の彌太郎は第8代日本銀行総裁、
次兄の彌ニは警察部長を歴任し、あの三島由紀夫の叔父、
次姉の峰子は牧野伸顕(大久保利通の次男)に嫁ぎ、麻生太郎の先祖、
妻は佐賀藩鍋島家の子孫である文子、
・・・とまぁ名門なわけです。
三島弥彦は高校時代(学習院)に野球部でエース、ボート部でも一軍選手、
東京帝国大学(東京大学)に進学し、スキー、スケート、柔道、相撲、乗馬などいろいろなスポーツに取り組み、「運動会の覇王」との異名をとることになります。
三島弥彦は、成年男子の平均身長が155cmほどだった時代に、
170cmを超える身長で運動神経が抜群、さらに東大に入るくらい成績優秀。
頭脳明晰、運動神経抜群のモテモテのエリートだったことが予想できますよね(笑)
そんなスポーツ大好きな三島弥彦は、スポーツ社交団体「天狗倶楽部」に入り、
明治時代のスポーツ大好きなメンバーたちといろいろなスポーツに取り組むわけです。
この天狗倶楽部での活動が、三島弥彦のオリンピック初出場につながることになるんです。
オリンピック予選会に飛び入りで出場
1909年(明治42年)、オリンピックの父クーベルタン男爵より、
東京高等師範学校(筑波大学)の校長を務めていた嘉納治五郎に、オリンピック参加の要請が届きます。
日本国内のオリンピック参加への消極的な環境の下で、
嘉納治五郎はオリンピック参加への運動を行い、ついにオリンピックへの出場を果たすのです。
その出場の予選会となったのが、
1911年(明治44年)の「オリムピック大會予選競技会」です。
この予選会のための会場(羽田運動場)建設に関わったのが天狗倶楽部で、
三島弥彦にも審判員として参加の要請があったとのこと。
要請を断った三島弥彦は、競技会を観戦しようと観客として会場に来ていたそうです。
観戦だけしようと思っていたようですが、
生来の好戦癖はムクムクと起って、到底ジッとして傍観しては居られぬ。久しく練習も絶えていたけれども、兎にも角にも交はって走って見やう(三島弥彦?)
とのことで、競技に飛び入り参加し、
100m、400m、800mで優勝、200mで準優勝してしまうわけです(笑)
この結果、陸上短距離走の三島弥彦と長距離走の金栗四三の2人が、
第5回オリンピックストックホルム大会(スウェーデン)に出場することになったのです。
日本にとって初めてのオリンピック出場で、
三島弥彦と金栗四三の2人が日本人初のオリンピック選手です。
オリンピックに出場することになった三島弥彦は、国内の無理解や反対に苦しみます。
本人も「たかがかけっこをやりに外国に出かけるのは帝大生にとって価値があるのだろうか」と、
東京帝国大学総長に悩みを打ち明けていたとも。
そんな状況で三島弥彦と金栗四三はストックホルムに出発しました。
オリンピックで競技に出場!
1912年(明治45年)、ストックホルムオリンピック開会式に日本選手団が入場します。
選手は三島弥彦と金栗四三の2人だけです(黒い正装は選手団幹部の方々?)。
このとき三島弥彦は26歳です。
開会式の午後、ついに三島弥彦が、日本史上初のオリンピック競技に出場しました。
※オリンピックに初出場した選手は三島と金栗の2名ですが、競技として初出場したのは三島です。
100mの予選に出場しましたが、トップに1秒以上の大差をつけられ予選敗退。
意気消沈した三島弥彦は金栗四三に、
「金栗君。日本人にはやはり短距離は無理なようだ」
と語ったようです。
200m予選では最下位となり敗退、
400mでは準決勝まで進出しましたが、足の痛みにより棄権しました。
ちなみに、マラソンに出場した金栗四三も「行方不明」と棄権扱いとされます。
金栗の場合はその後に感動エピソードがあるわけですけど。
このように、日本にとっての初出場となったオリンピックで、
短距離の三島弥彦も金栗四三も惨敗となるのです。
しかし、日本のアスリートにとって記念すべき第1号となる出場であり、
その中でも、三島弥彦こそ、日本人がオリンピックで競技に出場した第1号です。
三島弥彦はこのストックホルムオリンピック終了後、
大学卒業とともにアスリートとしての競技を辞め、
長兄の務めていた銀行に入行し、銀行マンとして一生を終えます。
1954年(昭和29年)に67歳で生涯を終えます。
ともに出場した金栗はその後も競技を続け、
日本スポーツ界、長距離界に大きな功績を残し「日本マラソンの父」と称されるようになります。
飛び入り参加でオリンピックに出場した、頭脳明晰スポーツ万能の三島弥彦は、
当時のアスリートのスーパースターであり、我らが日本の第1号のオリンピアンなのです。
大河ドラマ「いだてん」では生田斗真が演じていて、天狗倶楽部なども出てきますね。
いだてんを観ながら、三島弥彦の描かれ方もみてみたいですし、
三島や金栗をとおして、オリンピックというイベントを楽しんでみたいですね。
まとめ
以上、今回はオリンピックに初出場した三島弥彦について紹介しました。
オリンピックで初めて日本人が競技に出場したのが三島弥彦です。
スポーツ選手、アスリートといえば、ストイックに自分の競技に向き合うようなイメージがありますけど、
この日本人第1号のオリンピアンは、
持ち前の運動神経で、「ちょっとやってみるか」的なところでスポーツに取り組んでいたようなイメージを持ってしまいます(笑)
しかも、名門の御曹司、大金持ち、頭も良い、もちろんモテモテ!(←もちろん私見です(笑))
皆さんの周囲にもいませんか?
スポーツも勉強も抜群にできるスーパースターが!
こんなイメージの三島弥彦が日本人初のオリンピアンであることが、うれしかったりします(笑)
三島弥彦をとおしてオリンピックを楽しむことも一興かなと思います。
今回の記事がスポーツを楽しまれる皆さんのお役に立てればうれしく思います。
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最後まで読んでいただきありがとうございます。
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